ドリブルと自己満足と世の中の発展

ドリブルって好きな人多い。

自分もそうだ
ただ、固執はしない。弱いから。

ドリブルを全てと決めつけて、自己満足を完結(こたえ)にする人が多い。
これは、改めて気付き!!


これは、良く喋る=ドリブル
って例える事も出来て
日本人のドリブルに対する
・執着心の強さ
・要求の高さ

ってあるなって言う人がいて納得はしてたんだけど。
理由が分かった。



A「ドリブルが全てだから!」と錯覚した世間の風潮があるから



【補足】
要するにドリブル=良く喋る=物事を持っていく

⇒自分の努力 とか 魅力・価値⇒存在意義

として捉えてしまう     これは、アリがちで×良くないMiss


【本質】
確かに、ドリブルは
喋ることは、凄く多い基本行動で「高い質だと」得点=結果に繋がりやすい。


しかし、ドリブル無しに パスの連続でも点は入る

言い換えれば、ドリブルは必要ない

しかし、また、見方を変えれば連続パス=ドリブル(チームを個人とみた場合)
とも受け取れる。


【誤解の例】
野球でよくあるけど、日本は特に「過程」を重視し「形だけ」のカーストがしきたりが形成されがち。

マチュアとは=練習をしている格好を見えるだけのショー

的な要素がある。


「感想」
世の中の不条理と、無意味・無駄さを感じずには居られなかった



だけど、もっと俯瞰してみてみたら
自分の趣味の範囲だけど

「情報化社会」で
「ドリブル」は減少し「パス」主体の社会構成になってきてて

ちゃんと人類は進化してるなぁ~とも

気付けた。
スピートの社会


むかしは、個人にスピードがあればよかったケド、今はチーム
家族・会社・仲間にそれが求められる

ドリブルもパスもうまい自分としては大変な時代だ。



でも、やりがいを感じなきゃいけないんだな。。。。。。


めんだくさがりなんだけど。。。。。





ああ。そうそう。いずれにしても
ひとの幸せの結果。⇒「こたえ」って言うのは
自己満足
である


でも、自己満足の証を大抵の人は
日本語を理解せず、空気を読んで「他人の評価」=「自己満足」
にしてしまっていて




他人の評価は、他人に(そのひとダケに)都合のいいドリブル


なんだよな。



かっこだけ、ドリブル記事Newsが最近闊歩している。



そうそう。それはそれで良いんだけど
「失敗」「責任」「謝罪」「改善」が付いてこないから世の中が良くならない
あるいは、良くなるスピードが遅い

「失敗」⇒爆発orかくす

だから