村田兆治さんの件、高橋和希さんと似たような気持になった。

イイとか悪いとかじゃなくて、居てくれるとか、まだ役割がって感じがする。残念ってのしか出てこないのが似てる

 

 

村田兆治さん(72)「暴力は見解の違い」死去9日前に明かした“真相”

2022年11月13日 07:00 TBS NEWS DIG

■現役引退後も140キロ ”マサカリ投法”で知られた村田兆治さん


「あー村田です」
「さっき家に帰ってきて手紙読んだよ」

村田兆治さんから電話がかかってきたのは、亡くなる9日前の朝だった。
ゆっくりとした口調で穏やかな声。

電話をくれたのは、今年9月に起きた羽田空港での暴行事件について、「真相を聞きたい」と手紙を出して取材をお願いしていたからだ。

小学3年生から大学まで14年間野球を続け、キャッチャーを守ってきた私にとって、村田兆治さんは大投手。
現役引退後も”マサカリ”投法で140キロ近いボールを投げていた姿が印象に残っている。
だからこそ、村田さんが警察署の玄関で頭を下げている姿は想像もしなかった。

なぜ事件が起きてしまったのか、事件当時の村田さんの気持ちが知りたかった。
およそ8分間の電話で、村田さんは、直接会って話をするという約束をしてくれた。
ただ、9日後の11月11日、その約束は叶わないものとなってしまった。

■突然の訃報 村田兆治さん自宅の火事で死亡 2階小部屋に座った状態で発見


11月11日の早朝、私の上司から1本の電話があった。
村田兆治さんの自宅で火事があって意識不明の重体のようだ」信じられなかった。
村田さんの自宅が黒く焼け焦げている映像をニュースで見て、はじめて現実を受け入れた。

どうか助かっていてほしい。
そう願ったが、その後、村田さん死亡の一報に触れた。
72歳。死因は自宅の火事による一酸化炭素中毒とみられている。
警視庁などによると、村田さんは火元とみられる2階のリビングの近くにある小部屋の床に部屋着を着て座った状態で見つかったという。

■4度にわたり自宅を訪問 村田兆治さんにあてた3枚の手紙


村田さんが現役引退後の活動として力を入れていたのが、離島の中学生による軟式の野球大会「離島甲子園」だ。
島の子どもたち同士が、野球を通じて交流の機会を増やすことを目的として2008年に始まった。
村田さんは大会の提唱者。
60歳を超えても140キロ近い球を投げていた村田さんは、野球を続けてきた私にとって偉大な存在で、現役時代を見ていない子どもたちにとっても憧れの存在だったと思う。
だからこそ、事件については信じられない気持ちがあり、私は取材を始めた。

事件が起きたのは、9月23日。
村田さんが、羽田空港の保安検査場で保安検査員の女性とトラブルになり、女性の左肩を押したとして暴行の疑いで逮捕された。

取材を進めると、村田さんが世田谷区の一軒家に住んでいることがわかった。
突然、訪問するのが失礼なことは承知の上だったが、事件から1か月後の10月21日(金)にはじめて自宅を訪問した。
時間は夜8時を過ぎていた。
自宅の中は真っ暗で、インターホンを鳴らしても応答はない。
取材の依頼をする際には、電話やメールなど、いくつかの方法が考えられるが、直接会ってお願いすることに拘ったのは、「事件当日に何があったのかを知りたい」というこちらの想いを誤解なく伝えたかったからだった。

週が明けた10月24日(月)、26日(水)も会えず、4度目の訪問となった11月1日(火)。
この日に会うことができなければ、村田さんが遠方に出かけている可能性もあると考え、“会えなければ手紙を書いて投函する”と決めて自宅に向かった。
午後8時、やはり応答はない。“もうここには住んでいないのかもしれない”そう思ったが、私は村田さんの自宅近くの飲食店に入り、ダメ元で便せん3枚にわたり手紙を書いた。

■「感情的になったら良い成績は残せない」死去9日前の村田兆治さんからの電話


4度目の訪問の翌日(11月2日)午前10時30分。私は警視庁担当の記者として、霞が関記者クラブで午前11時半からのニュースに向けて電話取材をしていた。
すると、知らない番号から携帯に着信があった。
私は取材をしていたため、出ることができなかったが、15分後にその番号に折り返した。

「(もしもし)はい」
「(TBSの樋口ですが)あー村田です」

とても穏やかな声だった。
まさか、こんなに早く返事をもらえるとは思わず驚いた。

「さっき家に帰ってきて手紙読んだよ」
「私は人を殴ったこともない。嘘は言わないよ」
「有難いことに友人たちもそんなこと(暴行)はしないと言ってくれている」
「事件当時は、気が付いたらまわりに10人くらいの警備員がいて、私を認めさせようとしてきた。10人で言われたら認めたくなるよ」

多くの警備員が周りを取り囲み、その後警察官に逮捕されたという。
さらに、私が大学時代に野球部員だったことを知った村田さんは、話を野球に置き換えて話し続けた。

「野球をやっていたということだから分かると思うけど、感情的になったらいい成績は残せないよ」
「私もこういう性格で正義感を大切にしてきたんだよ」
「23年間ロッテで野球をやり、労働組合で課題にも取り組んできた」
「野球は情熱的になれて、決断力も身について、人材育成の場所としていいんだよ」

電話口からも野球への愛が伝わってきた。
そして、次に出てきたのは、背中を見せてきた子どもたちへの謝罪の言葉。

「触ったのが暴力だというのは、見解の違い」
「子どもたちに希望をもって勇気を、と言ってきた立場なので、逮捕という形になって、子どもたちに迷惑をかけた。申し訳ないよ」
「樋口さんは、社会部にいるということだから真相を明らかにできると思う。色々話せるときになったら必ず連絡するから。信用してほしい」 

■野球を愛した村田兆治さん


8分間の電話だった。
野球という共通点があったこともあり、事件について心を開いて話してくれたと思う。
村田さんは、逮捕当日も、北海道で行われる野球のイベントに向かう途中だったという。
まさしく生涯を野球に注いだ人生だったのではないか。
出火の原因はまだわからないが、これからも子どもたち、野球界のために…という想いがあった中で、今回の死去はとても残念でならない。
たった1度の8分間の電話だけで、文字として書き残すことも迷ったが、村田さんの想いを聞いた1人として、記事に残すことにした。