反田恭平さんと小林愛実さんおめでとうございます!成功の理由はやる事とやる気

ショパンコンクール入賞の2人はクラスでとんでもない感じの子だった 高校恩師語る

2021年10月25日 14:57NHK NEWS

世界の一流ピアニストの登竜門「ショパン国際ピアノコンクール」でダブル入賞の快挙を果たした、反田恭平さんと小林愛実さん。

2人は幼なじみ。高校も1学年違いで、名門・桐朋女子高等学校の音楽科に通いました。

高校時代、2人にショパンを教えていた先生に話を聞くと、2人のユニークな一面を教えてくれました。

高校の“恩師”に聞いてみた 「2人はどんな生徒?」

今回のコンクール、現地・ワルシャワの会場には、2人をよく知る“恩師”の姿もありました。

ピアニストで音楽評論家の下田幸二さん。
1990年から毎回、このコンクールを現地で聴いています。

反田恭平さん(27)と小林愛実さん(26)が通った「桐朋女子高等学校」の音楽科(東京・調布市)では講師を務めていて、2人の高校時代にも、ショパンの音楽や演奏法を教えていました。

世界のピアニストのトップに立った2人、当時はどんな生徒だったのでしょうか。

下田さんに聞くと、笑いながら当時を振り返ってくれました。

「反田くんは、ちょっとめんどくさい男の子」

下田幸二さん
「反田くんって、小林さんもそうだったけど、クラスの中でも“とんでもないような感じの子”だったんですよ」

「その学年はとても上手な生徒が多くて、日本音楽コンクールの入賞者が20人中6人くらいいたのかな。その中でも反田くんは、『先生の言ってることそんな興味ないよ』って顔をしていて、授業中も全然話を聞いてないようなふりをしてるんですね。
で、いざ演奏を指名されると『いや~、全然弾けませんよ』とか言いながらも体はピアノに向かい始めている…。
弾きたくないふりして、弾く気満々という感じでしたね。それで『練習してないからな~』とか言うから、『楽譜いる?』って聞くと『もちろんです!ぜんぜん弾いてないんで』って言いながら楽譜広げて、いざ弾き出すと、ものの見事に弾いてみせる」

「そういうちょっと“めんどくさい男の子”でしたね(笑)。でもそれが彼の愛すべきキャラクターでした」

「小林さんは『まあ、弾いてあげてもいいわよ、みたいな感じ』」

下田幸二さん
「小林さんも、授業で演奏を指名すると『まあ、弾いてあげてもいいわよ』みたいな感じで前に出てくるんです。
それで演奏後に私が『ショパンの楽譜にはこうあるから、こう弾くべきじゃない?』と指摘すると、彼女はしばらく黙ってから私の方を見て、『え?そう弾かなかった?さっきそう弾いたよね?』って言うんですよね(笑)」

「ふつう学生は『はい』って話を聞くものなんで、ぎょっとするし、笑いが止まらないくらいでした。でもそれくらいじゃないと、ショパンコンクールのような大きな場でちゃんと弾くなんていうことはできないんでしょうね」

現地で聴いた 2人の演奏は?

今回のコンサートでは、予選から最終の本選まで、すべてのピアニストの演奏を聴いたという下田さん。
2人の演奏はその中でも、際立つものがあったといいます。

下田幸二さん
「反田さんは1位にも等しい演奏をしたと思います。予選から見事な完成度で会場が割れんばかりの拍手に包まれていました。
本選では『ピアノ協奏曲第1番』をこれ以上は立派に弾けないくらいに弾いていました。もしかしたら今回は彼に1位の目があるかと思うくらいに、充実した演奏ぶりでした。
現地でも彼の演奏は大変人気がありました。反田さんは3日間ある本選の初日に弾いたんですけど、2日目や3日目に、知人の教授仲間や評論家などと話すと、『キョウヘイ・ソリタがよかった』という声は大変多かったですね」

「2位という結果も本当に誇るべきもので、決して時の運でとれるものではないので、胸を張って今後の演奏活動につなげてほしいです」

下田幸二さん
「小林さんは前回の2015年にも見事本選に残ったんですが、残念ながら入賞はなりませんでした。
今回は小林さんのほかにも、2回目の挑戦をする過去のファイナリストがいましたが、実力を発揮しきれずに予選で敗退していったんです。その中で、小林さんのことしのピアノは、自分の実力と今回のチャンスにかける“執念”を感じさせる演奏でした」

「彼女は女性の中でも体が大きくはないのですが、その体をうまく使って、『ピアノ』『ピアニッシモ』のような小さな音を上手に響かせ、ショパンの作品に寄り添うことで、自分の“ショパン感”を表現していました。
それが会場にいる世界の聴衆の心を打ち、支持されたことは大変立派なことだと思います」

ダブル入賞の快挙 どんな意義がある?

今回、2人がダブル入賞を果たした「ショパン国際ピアノコンクール」。

音楽界、とりわけピアニストにとっては、特別な意味を持つ舞台だと言います。

下田幸二さん
「ピアノの世界にも大きな国際コンクールがいくつかありますが、その中でも別格です。
例えるなら、テニスプレーヤーが、4大大会の中でも全英オープンウィンブルドンを特別視するように、『もし1つ入賞できるなら絶対にショパンコンクールだ』と思っている演奏家は多いと思います。
ショパンコンクールですばらしい成功を収めたら、その後はコンクールに参加しないという人も多く、“コンクールの終着駅”とでも言うべき位置づけです」

その大舞台で成し遂げた2人の達成には、日本の音楽界にとっても、大きな意義があるといいます。

下田幸二さん
「日本のピアニストのレベルは近年もすばらしいんですが、ショパンコンクールにおいては2005年を最後に日本人は入賞できていませんでした。中国など、ほかのアジアのピアニストがとても強くなり、日本のピアニストの発信力が少し弱まっていた面がありました。
そうしたなかで、反田さんと小林さんが日本の実力を見事に示して2位と4位に入賞したことは、本当に大きな快挙です。日本のピアノ教育とピアニストの高い実力を世界に示しました。国内の若い演奏家たちにも勇気を与える入賞だったと思います」

コンクールを終えた2人の様子は

コンクール終了後には、緊張の解けた2人の表情も見られたということです。
下田幸二さん
「小林さんは今回が2回目で、なんとか入賞したいという強い思いがあったし、おそらく心配もとても多かったと思いますね。
まだゆっくりとは話せていませんが、大変うれしそうな様子で、ほっとしたというか、とてもいい笑顔でしたね」

「反田さんは、入賞後の会見のあと、深夜3時くらいに私が路上でタクシーを待っていたら、後ろから『先生ー!』って呼んできて、『おれ、やばくないですか!』『やばいですよね?』って話していましたよ(笑)。こんなにうれしそうで大丈夫なのかっていうくらい喜んでいました。
今は喜びをかみしめて頂いて、2位の責任を胸に、またしっかりと演奏活動に励んでほしいですね」

斎藤佑樹さん

きのう野球YouTubeみてて
20年ぶりに「自分は野球好きだなぁ~」って実感した


ハンカチ王子 斎藤佑樹 引退 ~先輩の私に語った本当の思い~

2021年10月27日 15:41NHK NEWS

10月17日、日本ハム 斎藤佑樹投手(33)が引退しました。

15年前、“ハンカチ王子”として日本中の注目を集めた斎藤投手。
同じ早稲田実業野球部の1年先輩で、斎藤投手にエースの座を奪われたのが私です。

燃えるような闘争心を内に秘め大好きな野球に誠実に向き合う後輩 斎藤。
私はNHKに入った後、折に触れ、闘う斎藤の姿を記録してきました。
そして去年、野球人生に関わるケガを負った斎藤の取材を再開。
それが、斎藤のプロ“最後の日々”の記録となりました。
(スポーツ情報番組部 ディレクター 高屋敷仁)

去年12月「もう一回、思うように投げたい」

去年12月、日本ハムの2軍施設である千葉 鎌ケ谷スタジアム
当時、斎藤は右ひじのじん帯を断裂、投手にとって致命傷ともなるケガを負っていました。
この年、斎藤はプロ入り後、初めて1軍での登板が1試合もありませんでしたが、球団と契約し現役続行を決めました。

「結果を出していないのに特別扱いではないか」
そんな声もあがっていました。

高屋敷ディレクター
あえて言うけど、1軍で1回も投げていない中で、斎藤の年齢で契約されたことは客観的に見たら「なんで?」っていう声があると思うんだけど、そこはどう?


斎藤佑樹投手
僕もずっと考えていましたけど、僕は野球やりたいです。ファイターズでできるのがいちばんうれしいですし、それができなかったとしたら、他でも野球をやりたいと思ったと思います。
それがもちろん、世の中的に見て、いわゆる不公平だとか感じるのもわかりますけど、これは僕の個人の意見なんで、僕だけのことを考えていうと、僕はただ野球をしたいだけです。
あとは契約してくれるか、してくれないかはファイターズに任せる。
それは僕がコントロールできないことなので。
だから「自分から引退しろ」って言われるかもしれないですけど、それは自分の気持ちに対して矛盾しているなって。
野球やりたいのに、自分から引退しますって、おかしいじゃないですか。
逆に最後まで野球を自分ができるまではやりたいと思っているので。

マスコミやファンが一人もいない2軍のブルベンで投げ続ける斎藤。

その球速は130キロ台前半。
全盛期の150キロに遠くおよびません。

1軍で最後に勝ったのは4年前。
プロとしてはドン底の状態が続いていました。

なんで斎藤は投げ続けられるのかなと。ちょっと思ったけどね?

斎藤投手
本当ですね。やっぱり僕もそれを最近考えてて、もしこれ野球じゃなかったらこんなに続けられるかなって思いますし、投げるってことが好きだからここまで続けられていると思いますし。
18歳のころに甲子園で優勝して、大学でも優勝して、プロでも最初のほうは少し勝てて、そこからまた勝てなくなってきて、だからこそもう一回、思うように投げたいっていう気持ちはあるのかなと思ってますね。

「もう一回、思うように投げたい」
そのことばで思い返すのは15年前の甲子園の決勝。
駒大苫小牧田中将大投手と投げ合い、最後は144キロのストレートで田中投手を三振にしとめ、チームを優勝に導きました。

早稲田大学でも1年からエースとして日本一に貢献。

ドラフト1位で日本ハムに入り、1年目は6勝。
2年目には開幕投手に抜てきされました。

しかし、この年の日本シリーズで肩を壊し、思うように投げられなくなってしまいます。
腕と肩甲骨の間にある「関節唇」の損傷。

翌年はゼロ勝、その次の年は2勝、プロ3年目以降にあげた勝利はわずか4勝。
以来、鎌ヶ谷の2軍球場が斎藤の居場所となっていました。

2月「1軍で1勝すること。それがボーダーライン」

今年2月の沖縄キャンプ。
斎藤は球速を出すためのフォーム改造に挑戦していました。
連日およそ200球。
プロに入って最も多くの球数を投げる新たな練習に取り組む斎藤。
ここ沖縄は10年前、斎藤がプロ野球選手としてのスタートを切った場所です。

このキャンプからプロ野球選手になって、10年たって自分が変わっていることとかある?

斎藤投手
いちばん思うのは、あの頃こうやって自然体でインタビューを受けることはまずなかった。自分を作っていたし、いろいろな感情を押し殺しながらプレーをしていたと思います。
「これ言っちゃいけない」とかいろいろ気を使いながらしゃべっていましたけど、今はあまり気をつかってないです。
僕が変わったというよりも、僕を見てくれている人たちの目が変わったっていうのがいちばんじゃないですか。
僕が変なことをしゃべったら、きっと高屋敷さんだったらそんなところ使わないじゃないですか。
それって10年かけて「斎藤佑樹」という存在を知ってくれた人たちが作り出してくれているだけだと思うんです。
だから僕も自然体でいられるというのはありますね。

斎藤の中で、これができたら自分として本当に丸をつける、みたいなことはあったりするの?

斎藤投手
怒られちゃうかもしれないですけどやっぱり1軍で1勝すること。
それが1つのボーダーラインかなと思いますね。

10年前、ここを人をすごい連れて歩いていた時と、1勝に対する気持ちは違う?

斎藤投手
全然違いますね。1勝の価値、1勝の重みみたいのは全く違いますね。
おそらく11年前ここ歩いてる時、僕は1勝なんて簡単だろと思ってましたよ、たぶん。
その時に考える1勝と、今目指す1勝とは明らかに差がありますし、今1勝しろって言われたら相当難しいことだと思うんですけど。

7月「思いどおりに投げている夢をよく見ます」

シーズンが開幕して3か月がたった7月。
斎藤は2軍戦のマウンドに立っていました。
球速は130キロ台前半とキャンプからの取り組みの効果は上がらず、1軍から声がかかることもありません。

斎藤は、よく見るという夢の話をしてくれました。

斎藤投手
最近すごく夢で見るのは、ボールを自由自在に操れる能力が僕に舞い降りてきて、本当、思いどおりに投げている夢をよく見ますね。試合で投げています。
ことしずっと見ますね。
それだけボールをコントロールできて、自分が思うような結果が出たらめっちゃ楽しいなって、夢から覚めたときには「まあ、それはそうだよな」「そんないい話ないよな」って。

それは高校の時みたいに抑えているときに似ているの?

斎藤投手
そういう感じかもしれないです。
自分の体がコントロールできて思うような結果が得られて…
確かに似ているかもしれないですね。

初めて聞いたけど、おもしろいね。

斎藤投手
ははは、おもしろいですよね。
そんなこと自分だけできたら、逆につまらなくなるのかもしれないですけど。
でも一回ぐらいはやってみたいですね。

“今の斎藤佑樹”に届いたファンレター

7月のインタビューで斎藤が教えてくれたのが応援のファンレター。
ハンカチ王子”時代を知る世代だけでなく、
“今の斎藤”だけを知る、若いファンからも応援が寄せられていると言います。

斎藤投手
ファンレター本当にうれしいですね。
正直言うと、ファンレターがたくさんきていた時って全部見きれないじゃないですか。
今、全部見させていただいて、僕が元気もらうような内容がたくさん書いてある。
それはすごくうれしいですね。

斎藤がファンレターの一部の内容を教えてくれました。


「私は甲子園のことや、入団された頃の斎藤さんを知りませんが、努力されている姿を見て、お手紙を書かせていただきました。つらくなったらすぐ逃げてしまうことが多く、なかなか立ち上がれないので、斎藤さんが立ち上がり続けているのは本当にすごいことだと思います」


「いつもがんばっている姿、同年代の人間として尊敬しております。ケガなどで思うように活躍できない姿などを含めて、生きざまをファンとして見させていただいております。斎藤選手のどんな状況でもはいあがる精神、向上心に刺激されます」


斎藤の高校時代を知らない人からも声が届くのって、11年プロでやってきているから?

斎藤投手
その時間をもらえていることはすごく幸せですし、長くやっているからこそ、迷惑はもちろんかけますけど、僕がいろいろな人に出会えて、いろんな人に支えられているっていうのが改めて感じられているので、それはすごく幸せだなって。

8月 東京五輪「ハンカチ世代の活躍に悔しさ」

この夏。斎藤の心を動かす戦いがありました。
田中将大柳田悠岐、そして坂本勇人
かつてハンカチ世代と呼ばれた選手たちが躍動した東京オリンピック
斎藤が思いをつづっていたノートには「東京オリンピックには正直言うと出たかった」と書かれていました。

斎藤投手
悔しいのは、悔しいですよね。
同じアスリートとして自分がそこに行けなかったという。
例えば18の頃だったら確実に目指せるポジションにいましたし、目指せるチャンスもあったのに、自分の努力不足もあったでしょうし、ケガってこともあったでしょうし、やっぱり今思えばどれをとっても言い訳はできないのでそれが悔しかったりしますよね。

ここで私は斎藤に対して緊張する、ある質問をしました。
甲子園での名勝負以来、必ず引き合いに出される田中将大投手の活躍について聞いたのです。
斎藤はこれまで、ライバルの名前を出されると露骨に嫌な顔をして見せたのですが、この時は違っていました。

率直に、マー君とか見てすごいなと思うの?

斎藤投手
やっぱり思いますよね。
どっかで負けないぞって思っていましたけど、プロに入って経験を積んでメジャーに行って活躍して、やっぱりすごいなぁと思いますし、今でもその気持ちは変わらないですね。

イラッとした?

斎藤投手
しないですよ。
いい意味で僕も大らかになったというか、そういう質問に対して、一喜一憂することももちろんないんですけど、よくない意味でいったら、闘争心が無くなってきたのかなと思ったりもしますけど。

9月22日「引退します。最後に僕が決断しないといけない」

9月22日、私は斎藤に呼び出されました。

練習を終えた斎藤と2人きりの場。

そこで突然、告白されたのです。

斎藤投手
結論から言うと引退をするということになりました。
何でかと言うと肩がすごく痛いから。
この間投げた時、肩が本当に上がらなくて「これ無理だなぁ」と思ったんですよね。
試合になったら何とか投げられるんですよね。投げられるけど次の日は肩上がらなくなるし、きょうのキャッチボールもすごくつらかったし。そこがいちばん大きいですかね。
去年もこの時期にひじをけがして「来年もやろうと思えばできる」とドクターに言ってもらえて、去年のこの時期には1年で終わりにするって決めて今の時期を迎えて、これがズルズル続いていくと、野球は大好きですけど、どこかで自分の人生の中で区切りを決めないと次に進めないなと思っている時がきょうだったので。
そればかりは、誰も相談することはできないというか、最後僕が決断しないといけないですしね。

引退の決断を告げる斎藤の目に、うっすらと涙が浮かんでいるように見えました。

ずっと迷っていたと思うけど、斎藤が決断しなかった理由はなんでだと思う?

斎藤投手
心のどこかでまだやれるんじゃないかって言う自分の中での期待がありましたし、まだ本気で140キロ台のボールを投げて1軍で勝てるって本気で期待してたんでそれがあったからだったかもしれないです。
思うように投げれなかったのがいちばん大きいですね。
あと、他のチームメイトを見ていて、他のチームメイトを応援する気持ちが強くなってきたというか、本当はライバルであるチームメイトに対して、本気で頑張ってほしい、活躍してほしいって思ってきたところは選手としての闘争心みたいのがなくなってきてるんだろうなと感じました。
そんな中、けがでマウンドに行って自分の思うような球が投げられない。
何とかそんな状態でも投げさせてもらっている、チャンスをもらっていることに歯がゆさを感じたりしていました。

10月 引退「やり続けることで得られるものがあった」

10月3日、2軍での最後の登板。

斎藤の最後の一球は132キロのストレートでした。

斎藤投手
今の自分が出せる最大限のフォーシーム(ストレート)だったので悔いなく投げられました。
いろんな事を考えた時間が鎌ヶ谷で多かったかなと思いますね。
ここで過ごした時間は僕の人生にとってはとても大事な時間でしたね。

10月17日、斎藤は札幌ドームで行われたオリックス戦で現役最後のマウンドに。
試合終了後、私は斎藤に“最後のインタビュー”をしました。

2軍生活が長くて、いろいろ考えることがあったと思うけど、その中で斎藤が見つけたもの、気付いたものって何があるのかな?

斎藤投手
目標に向かって頑張らないといけない。それはやり続けないと見えるものも見えてこない。やり続けることによって、どうしてもできないことがある。
今回、僕もできないことが多かったし、それを達成しなくちゃいけないんですけど、それを達成できなかったとしても、やり続けることによって得られるものはたくさんあったと思います。
もしかしたらそれ以上のことが僕は得られたかもしれないですし、自分がやってきた目の前のことを淡々とこなしていくことは大事なのかなと思いましたね。
高校大学で結果を残すことができて、そのままプロに来て活躍できると思ってきましたけど、やっぱりそんなに甘くなかった。
ただ、その中から自分が活躍するために見いださなきゃいけないことはたくさん考えましたし、考える過程が僕にとってはこれからの人生にとってきっと大事なんだろうなと感じました。

取材期間中に「斎藤は投げなくなったら、ただの人だ」と先輩面して話したことがありました。
激励の意味もあったのですが、今は取材を通じて野球人だけには収まらない「人間としての強さ」を斎藤から感じています。
斎藤がこれからどんな道を歩んでいくのか、期待をしながら見つめていきたいと思います。

現代の移民

「イギリスなら安全」は幻だった 香港の人々はいま

2021年10月22日 10:56NHK NEWS

「早く香港を離れたいという人からメールが殺到しています」

そう語るのは、ロンドンで香港からの移民の支援活動を行う男性だ。

中国による統制が強まるふるさとから離れた人々は、異国の地でどのように新しい生活を築いていくのか。

1年にわたる取材から見えてきたのは、想像を超える厳しい現実だった。

支援した香港移民は1000人以上

その男性に出会ったのは、去年秋に放送した番組の取材中のことだった。

ロンドン市内のアパートを拠点に活動するサイモン・チェン(31)。

彼の元にはイギリスへの移住を考えている香港の人々から、ひっきりなしに相談のメールや電話が入る。

サイモンは仲間と共に、ふるさとを離れた香港の人々を支援する団体を運営している。

ビザの申請方法や家の借り方など生活再建に必要な情報を伝えたり、イギリス政府に支援の要望を提出したり。
ときには、着の身着のままロンドン空港に到着した若者から、「亡命申請したいが、英語が話せない」と電話を受け、駆けつけることもある。

活動はすべてボランティアで行っており、これまでに支援した人は1000人を超えた。

「ある事件で人生が変わってしまった」

2年前まで、香港にあるイギリス領事館の職員だったサイモン。

なぜ、異国の地でこうした活動に身を投じることになったのか。

サイモン・チェンさん
「私は政治家でも民主活動家でもなく、ただの市民でした。ある事件で人生が大きく変わってしまったのです」

転機となったのは、おととしの夏。

中国の統制が強まる中、人々は政府の方針に反対する過去最大のデモを行っていた。

サイモンは友人に誘われて初めてデモに参加したあと、中国に出張したところ、突然、警察に拘束された。

そして「お前はデモを水面下で扇動するイギリスのスパイではないか」と言われ、拷問されたと言う。

サイモン・チェンさん
「目隠しされたまま、ずっと手を上げさせられ、震えると殴られました。首に何か巻きつけられ窒息しそうでした。そして、なぜ民主主義や西洋が常に正しいと思うのか、問い詰められました」

この間、解放を求める市民の抗議が世界的なニュースとなり、サイモンは15日後に釈放された。

この経験を機に、中国による統制の強化に底知れぬ恐怖を抱くようになったという。

サイモン・チェンさん
「私は中国で何が起きているか知ってしまいました。(拘置所で)人間が毎日拘束され、動物のように扱われている。それを国家がやっているのです」

イギリスに押し寄せる香港移民

釈放後、サイモンはすぐに出国。

パートナーと共にイギリスに渡り、政治亡命が認められた。

その半年後、香港では香港国家安全維持法(国安法)が施行され、サイモンが恐れていた事態が始まった。

公共の場でデモ活動の象徴となっていた曲を流したり、民主派のスローガンの旗を掲げたりした市民が次々と拘束され、反政府的な言動をした人を通報する窓口も設置された。

自由を求める人々の声は、一気に押さえ込まれた。

こうした中、かつて香港を植民地支配していたイギリスがある発表を行った。

イギリス・ジョンソン首相
「中国がこうしたことを続けるなら、われわれは人々に逃げ道を作る」

香港の人々の長期滞在や就労を許可し、市民権への道を開くと決めたのだ。

対象は1997年の返還までに香港で生まれた「イギリス海外市民」(BNO=British National Overseas)の資格を有する、およそ290万人。
後日、資格所有者の扶養家族にまで対象が広げられた。

この発表の直後から、デモに参加していた若者や、子どもが自由な教育を受けられなくなることを恐れる家族らが、一斉にイギリスを目指し始めた。

この制度を利用し、イギリスへの移住を申請した人は6万人を超える。

1日1食で我慢する人も

香港にいた頃の貯金と時折入るアルバイトで生活をやりくりしながら、移民への支援活動を行うサイモン。

取材を始めた当初、私は、英語が話せてビジネスのスキルもある香港の人々は、イギリスにたどり着けさえすれば、順調に新生活を築いていくと思っていた。

しかし、現実はそう簡単ではなかった。

サイモンが支援するひとり、ジム・ウォン(30)。

香港でテレビ制作の仕事をしていた若者だ。

ジムにはデモ参加後に警察に検挙された経験がある。
国安法施行後、起訴されれば公平な裁判を受けられずに拘束されるのではと不安になり、逃げるようにイギリスにやってきた。

イギリス政府のひごを受けられるように政治亡命を申請しているが、審査はなかなか進まない。

その間は就労できないため、生活は困窮を極めていた。

ジム・ウォンさん
「1日1食で我慢することもあります。誰にも別れを告げず香港を離れましたが、自分の選択は正しかったのか、心が乱れることがあります」

中国人向けの企業しか就職先がない

香港では外資系の調査会社で高収入を得ていたアラゴン・ホー(37)も、渡英したものの暮らしが立ちゆかないと相談に来た。

移住して半年以上たっても、仕事がなかなか見つからないという。

アラゴン・ホーさん
「生活は厳しいです。コロナ禍で企業がどんどん解雇していて、仕事は奪い合いの状態です」

ロックダウンのさなか、アラゴンがようやく見つけた仕事はタピオカ店のアルバイト。

しかしそれも、3週間で閉店してしまった。

6月、アラゴンはこれまで避けていた中国系の企業から仕事のオファーを受けた。

中国人向けの不動産会社だった。

いまイギリスの不動産業界では、中国人富裕層向けのビジネスが急成長。
各社がこぞって中国語のできる人材をかき集めている。

アラゴンは悩んだ末、そこで働くことにした。

だが不安が拭えないという。

アラゴン・ホーさん
「収入が必要だったので、しかたないです。でも、中国人向けの不動産会社なので、うっかり中国政府を批判するような発言をしたら危険です。中国大使館などにつながりがあるかもしれません。同僚も皆、中国人なので、話す相手は誰もいません」

中華街の香港出身者にも頼れない

ロンドンに暮らす華僑の多くは、香港の出身者だ。

だがサイモンら新たな香港移民にとって、華僑には頼りづらい事情があると言う。

3月に中華街商会が出した声明。
「中国を愛する者が香港を統治する」とする香港政府の政策を支持すると表明した。

そこにはイギリスの華僑の団体、70近くが名を連ねていた。
さらに中華街商会の代表は、香港の治安のため国安法を支持するという立場を示している。

イギリスも香港と同じ状況に

イギリスでも増し続ける中国の影響力。

香港で抗議活動が封じられる中、サイモンは移民の仲間と共に、香港の自由を求める声を発信する街頭活動にも力を入れている。

しかし最近、そうした「言論の自由」が脅かされる事態に直面しているという。

ある日サイモンは、一緒に活動する香港からの留学生から「中国人留学生による嫌がらせに悩んでいる」と報告を受けた。

学生たちが大学内で香港の民主主義の危機について伝えるイベントを行ったときのこと。

突然、中国人留学生数十人に取り囲んでののしられ、イベントは中止に追い込まれたという。

このとき中国人留学生のひとりが、イベントを主催した学生たちの顔を撮影し続けていた。

香港からの留学生
「写真が中国政府に送られ、ブラックリストに載るのではないかと怖かった。香港に帰ったら、国安法違反で逮捕されるかもしれない」

香港政府は、反政府的な動きを処罰の対象とする国安法は海外でも適用されるとしている。

イギリスでは、中国からの新規の留学生が10年で3倍近くに増加しており、学生たちの調査では、こうした嫌がらせが多発していることがわかったという。

香港からの留学生
「“イギリスなら安全”と思っていたが、幻だった。中国の影響力はあらゆるところに浸透していた」

サイモン・チェンさん
「怖い。多くの犠牲を払ってやって来たのに、香港と同じ状況になっていたなんて」

サイモンたちはイギリス政府に香港移民の課題を訴えてきたが、期待していたほどの支援は受けられていない。

“中国の諜報員がお前を連れ戻す”

サイモン自身も、中国の影におびえながら暮らしている。

移民の支援活動を始めてすぐに、国家の分裂を図ったとして“国安法違反”で香港警察から指名手配されたのだ。

イギリス政府は、サイモンの亡命を受け入れ、香港への身柄引き渡しを行わないことを決めている。

だがサイモンは強制的に中国へ連行される不安を抱えるようになった。

サイモンの携帯電話には、「中国の諜報員がおまえを連れ戻す」などと書かれた脅迫のメールが、見知らぬ相手からたびたび届くようになっている。

誰かに後をつけられている感覚を覚える日も少なくないという。

サイモン・チェンさん
「怪しい男が車から見ていました。疑心暗鬼になり、常に神経質になっています。逮捕されれば中国の刑務所で終身刑でしょう」

「さようなら」を言えなかった両親

1年間の取材で、サイモンが唯一涙を見せた瞬間があった。

香港に残してきた両親の話を聞いたときだ。

サイモンはイギリスに亡命して以来、両親に危険が及ばないよう、一切連絡を絶っている。
家族の写真はすべて削除し、手元に残したのは、中学生のときに母が買ってくれたTシャツだけだ。

工場労働者だった両親は、一人息子を大学に進学させたことが誇りだった。

サイモンは出国直前、最後に一緒に食事をしたときに「香港を離れる」と伝えなかったことが、ずっと心にひっかかっているという。

サイモン・チェンさん
「心配させたくなくて、言えなかった。ふだんどおり笑って何もないふりをしました。いつも夢に両親が出てきて、苦しくて、泣きたくなります。一生懸命育ててくれたのに、こんなことになってしまった。両親がいつか新聞などで私の活動を知ったとき、どうか誇りに思ってほしい」

自分が自分でいるために

家族や仕事を捨て、多くの犠牲を払って選んだ道。

厳しい状況は続いているが、少しずつ理解者も増えている。

ことし夏、自身もパキスタン移民の子孫であるロンドンのカーン市長が、90万ポンドをかけて香港移民の生活再建を支援することを決めた。

取材の最後に、サイモンはこう語った。

サイモン・チェンさん
「多くを失いましたが、後悔はしていません。私は、自分が自分でいるためにこの道を選んだのです。イギリスにいても、私たちは永遠に香港の人々を忘れません。大切なのは、信じる種火をなくさないこと。人々が孤立無援だと感じないよう、声を上げ続けます」

サイモンたちが大切にしている「言論の自由」や「民主主義」への思い。

それは、イギリスに統治された時代があったからこそ植え付けられたものだが、それゆえに、中国による統制強化を受け入れることができず、故郷を失うことになった。

時代のうねりに翻弄され、イギリスに流れ着いた香港の人々。

その選択が報われる日が来ることを願わずにはいられない。

コレは、トイレ開発されますわw20万回

とりびぁ~~


トイレの世界 のぞいてみたら深かった

2021年10月21日 11:01NHK NEWS

人は一生のうちにどれくらいトイレに行くのだろう。

1日5回だとしても1年で1825回、80年で14万6000回だ。
トイレをつくるメーカーでは20万回とも言っている。

毎日、何回もお世話になるものだから、いろいろな場面で話題になり議論になる。
どんなトイレがいいのか、入りやすいのか。

トイレの話題をまじめに考えてみたら、相当深かった。

(ネットワーク報道部 小倉真依 柳澤あゆみ)

公園のトイレ、デザイン選べます

最近、ネット上で話題になっているのは兵庫県明石市が、ある公園に新しく設置するトイレ。

市民にトイレの外壁の色を選んでもらおうと公園に投票箱を設置。5つの案の中から選んでもらったのだ。

1位になったのは「男性用が淡い青系色、女性用が淡い赤系色」のデザイン。
208票を獲得した。

公園に来た市民がトイレのデザインを選ぶなんてすごい。2週間ほどで743人が投票したと知って、それもまた、すごいと思った。

ところが結果を公表すると事態が変わった。

急なデザイン変更

「男性は青、女性は赤と決めつけていて、性的マイノリティーの人たちへの配慮が足りない」

そのような批判的な意見が2件寄せられた。明石市は性的マイノリティーの人たちに関わる施策に、力を入れている自治体として知られている。

「色分けは市の方向性と異なっていないか?」

意見を受けて庁内でそんな協議が行われた。その結果1位と僅差(8票差)だった2位のデザインに変えることになった。

それは外壁の全体をベージュに統一したデザインのものだった。
これがSNS上で話題となった。

「それなら男女で分ける意味もないのでは」
「目が悪くトイレを色で判断している人がわかりにくい」

デザインの変更に少し批判的な声が目立った。

そこで明石市の担当者に聞くと「“2人の意見で決定を変えるのか?”“同じ色では犯罪を助長するのでは?”といった批判が来ています」と正直に答えてくれた。

ただ誤解されてしまっていることもあると言って、トイレのデザインについて詳しく教えてくれた。

(市の担当者)
「今回、決まったのはあくまで外壁のデザインだけなんです」
「トイレの入り口部分には、男女がよく分かるよう青と赤で色分けしたマークをつけ、視覚的に誤解がないような工夫も検討しています」
「障害がある人も男女別のトイレに入りづらい性的マイノリティーの人も、みんなが利用しやすいトイレも別に設置するんです」

みんなが使うから難しい

公共の場でのトイレ。
性的マイノリティーの人も、さまざまな障害がある人も、それに子どもも、大人も、高齢で足腰が弱った人も、みんなが使う。

みんなが使いやすいためにはどうするべきか、設置するほうもなかなか難しいものなのだなという印象を持った。

(市の担当者)
「気持ちよく使ってもらうにはどうすればいいのか、難しい問題ですが、いろんな人の意見を聴いて総合的に判断していくしかないです」

知ってた?みんなが使いやすい工夫

「みんなが使いやすいトイレ」にどう向き合うのか、トイレによくアルファベットが記してある、あのメーカに聞いてみた。

TOTOの渡邊文美さんと佐藤敬子さん。

2人とも“トイレに関わる困りごとに向き合う”ユニバーサルデザインを担当している。

明石市の話題については「少数意見を取り入れながらいいトイレを考える、そのことは歓迎すべきだと思います(佐藤さん)」
「みんなでみんなが使えるトイレを考える、いまはそういう過渡期だと思います(渡邊さん)」という考えだった。

話を聞いて印象的だったのは、トイレの困りごとを解決するために私の気付かないところにたくさんの工夫があったことだ。

例えば、手すりの色。

便器などが白いのに、手すりが黒いのもわけがある。
色のコントラストを作ることで、視覚に障害がある人に手すりの場所をわかりやすくしたのだ。

例えば、トイレットペーパーのカバー。

重さがあり、紙を切るギザギザがするどいものがある。
これは両手を使わなくても、片手だけでトイレットペーパーを切れるようにするためだ。

例えば、トイレットペーパーを設置するホルダー。

足が不自由な人や高齢者が、用を足すときや足したあと、ここに手を置いて体を支えられるよう、丈夫にしている。
(私、荷物置きだと思ってました、、、)

例えば、操作パネル。

子どもや外国から来た人が、どのボタンを押せば「水を流せるのか」「お尻を洗えるか」などがすぐにわかるよう業界団体で統一したピクトグラムを使うようになった。

「流すときはうずまきのマークを押してね」と伝えるだけで安心なのだ。
(統一される以前のマークも使用されています)

視覚に障害がある人が操作を間違えないよう「流すボタン」は丸形の寒色系、「呼び出しボタン」は四角形や三角形の暖色系が望ましいなど、推奨される形や色、配置もJIS(日本産業規格)で定められている。

困りごとをひとつひとつ解決しようとした結果が、工夫につながっている。

“誰もが使いやすい”の答えは簡単ではないが「正解がないとよく言われます。ただトイレは、いろんなニーズを考えて進化すべきもの、その時の状況に合わせてベストを探していくものだと思っています(TOTO渡邊文美さん)」と話していた。

悩み1 トイレがイヤで朝ごはんを食べない子ども

みんなで使うトイレを考えた時、子どもが最も使うのが「学校のトイレ」だ。

基本、子どもの間は毎日のように使う。

振り返ってみるとそうだなーと思うが、かつては学校のトイレ=5Kとも言われていたみたいで(汚い、くさい、暗い、怖い、壊れている)私も子どものころはあまり使いたくなかった。

取材を始めると「学校のトイレ研究会」という団体があるのを見つけた。

トイレ関連の企業が1996年に立ち上げ、当時は「学校での排便を我慢する子どももいて、その健康が心配されていた(研究会)」という。

“使いにくい”を超え“健康問題”になっていたようだ。

その「学校で排便できない問題」に向き合ったとして、研究会が紹介してくれたのが大分県にある「九重町立ここのえ緑陽中学校」だった。

(校長)
「毎日、朝ごはんを食べるように指導しているのですが、食べると、学校で排便をしたくなることがあります」
「でも、“トイレが古くて汚い” “排便すると、トイレから出てきた時にからかわれる”。以前は、そんな理由で朝ごはんを食べない生徒がいたようなんです」

学校は町内の4校を統廃合し平成25年に開校したのだが、悩みを解決しようと、全く新しいトイレにした。

まず小便器は置くのをやめた。
男女とも洋式の個室トイレにしたのだ。

これならトイレに入ってもどんな用を足したのかわからない。

外から光が入り、トイレが明るくなるデザインにもした。

「入りたくなるようなトイレ」

そんな志をもとにトイレを整備して9年目。
校長先生は「ちゃんと朝ごはんを食べるようになり、トイレに行くことは恥ずかしいことではないと感じていると思います」
そう話していた。

ここまでやるんだなと驚いた。

悩み2 隣が気になる

山梨県北杜市の須玉小学校、こちらは男性用の小便器を曲線状に設置することにした。

“用をたすときに隣の目が気になってしまう”

そんな悩みをなくすために、隣が見えにくい配置になるよう工夫したのだ。
いまは気持ちの抵抗なくトイレを使っていると学校では感じている。

「フタをしないで」排せつの学びのすすめ

トイレの悩みは深い。
毎日使うものだし、子どもたちは短い休み時間に用をたさないといけない。

公共トイレの改善に取り組む「日本トイレ研究所」という団体もあって、代表の加藤篤さんは「重要なのは、トイレを使うのは、『人』だ、ということです」と当たり前に思えることを強調し、その意味を説明してくれた。

(加藤さん)
「トイレはその時代、そこにいる人が求める社会や求める姿を現していると思っています」
「昔に比べたら、車いすの人も、お年寄りの人も、ベビーカーを使う人も、外国の人も、発達障害の人も、より頻繁に外出している。社会が変わってきているのです」
「それなら目指す社会に対応するトイレ、多様な人たちを、安心して引き受けられるトイレを作っていかないとダメなんです」

そしてもうひとつ、きれいなトイレ、便利なトイレを作るだけでなく、しっかり考えてほしいことがあると言いました。

(加藤さん)
「トイレでの排せつを恥ずかしいものとしてフタしないでほしい。体にとって大切なこととして学んでほしい。体に起きていることを肯定的に捉えるための学び、それを設備の充実とセットで進めていくことが大切なのではと思います」

確かに、、、、。
一生で20万回行くとも言われているトイレ、恥ずかしいだけのものにしておいてはいけない。

そして“きれい”“使いやすい”だけでは解決しないトイレ問題もある。

知れば知るほどトイレって深い、、が何よりの感想だった。

うぜぇ。日記書くのはイイケド過剰広告だよ

転載の際 文が長い。URLでいいじゃん

小さな命を守り続ける...榎並大二郎アナウンサー“心配だらけ”の育休日記

2021年10月21日 11:30FNNプライムオンライン

「おめでとう!育休はどうするの?」
妻の妊娠を報告した時、とある人に掛けられた言葉である。

今回、第一子となる長男誕生に伴い育休を取得した。具体的な手続きの流れ、そして育休中に感じたことを記していく。

まずは「育休制度」を理解する

まずは人事部に行き、育休制度の説明を受けた。ニュースで見聞きしていたはずだったが、その内容に「へぇ」の連続だった。主な内容は下記のとおり。

・男性は配偶者の産後8週間以内に1回目の育休を取り終えた場合、もう1回取得することが出来る
・育休を取得することで、社会保険料(健康保険料・厚生年金保険料)が免除される
・「配偶者の出産」という有給休暇が存在する(これはフジテレビ独自の制度)

三児の母でもある人事部の先輩社員が丁寧に説明してくれ、育休取得について「奥さま、とても助かると思いますよ!」と自分のことのように喜んでくれた。

そして渡されたのが「育児休業申出書」。育児「休暇」ではなく「休業」と書かれていた。「単なる休みじゃないんだよ。育児に勤しむために会社を休むんだよ」と諭されているような気持ちになり、身の引き締まる思いがした。

レギュラー番組『LiveNewsイット!』を休む不安

制度について理解を深めたところで、今度は担当している番組『Live Newsイット!』のプロデューサーに、育休を取得したい旨を伝えにいった。

日々の出来事や事件・事故、災害などの発生に備えて、昼夜問わず稼働している報道センター。当時は衆院選の日程も不透明で、秋の番組改編直前ということもあり、「こんな時期に休むなんて、キャスターとしての自覚が足りない」などと思われたりしないか、正直言って不安だった。

報道センター内を2周ほど歩いて回り気持ちを固めた後で、プロデューサーのデスクに行き、切り出した。

「育休を取得したいと思うのですが…」
「もちろん」

拍子抜けしてしまうくらい二つ返事でOKだった。私が不在の間、木村拓也アナウンサーが代行してくれることになった。元々『Live Newsイット!』でスタジオを担当していた為、仕事の引き継ぎもスムーズだった。

入社以来初めての2週間の休み

そして育休前最後の勤務を終え、アナウンス室内にある在席管理ボードに次の出社日を記入した。半月も先の日付を記すのは入社以来初めてのこと。

それだけの期間カメラの前に立たないというのはどんな感覚なのだろうか。復帰初日からブランクなくきちんとニュースを伝えられるだろうか。

そして、自分よりずっと長期間、会社を離れる女性たちは果たしてどのような心境なのだろうか。様々な思いを巡らせながら、育休中の同僚女性たちのネームプレートをしばし眺めていた。

息子の時間軸に合わせて生活ルーティンを整える

そして育休期間が始まった。

2週間という短期間ではあったが得られたことは様々あった。

一番大きかったのは、息子の時間軸に合わせた生活ルーティンを整えることができたこと。

いかにして妻がまとまった睡眠時間を確保できるかが、当時の最大の課題だった。当初は夜間も頻繁に授乳していて、細切れの睡眠しか取れない状態だった。

それが、夫婦で育児家事を分担・効率化できるようになったことで、息子が夕寝をしすぎないように時間管理して、沐浴から授乳、寝かしつけを決まった時間に行えるようになった。

その結果、息子の睡眠時間がぐんぐん延びていき、最近では5〜6時間、夜間にまとまって寝るようになった。こうして妻も睡眠時間を確保できるようになった。

育休が明けた今も、育休中に構築したこの生活リズムを保てている。

はじめて見えてきた「家事」の全容

そして、家事についても大きな気づきがあった。一日中家にいることで、これまで見えなかった「家事」が、眼前に山のように浮かび上がってくるようになった。

私にとって「洗って」「干す」ところで止まっていた洗濯は、「取り込んで」「畳んで」「しまう」ところまでを指し、料理は「メニューを考えて」「材料を調達して」「作る」ところから「食器を洗う」「排水溝のネットを取り替える」「シンク周りの水はねを拭く」ところまでを指すのだということを、今さらながら理解した。

こうした一連の流れを同時並行で遂行していかなければ、家が回っていかない。自分がいかに家事をやっている「つもり」になっていたかを痛感した。

そして、これまでその見えない全てを支えてくれていたのが妻であることに気づかされた。

この膨大な量の家事をしながら育児をしなければならないわけで、それを一人で背負う”ワンオペ育児”の過酷さは想像を絶する。パートナーや親族、友人など、周囲のサポートは不可欠であると感じた。

新生児の育児中は外出もままならず、家の中で鬱々とした気持ちになってしまう。

1カ月検診を終え息子も短時間の外出ができるようになり、散歩がてらスーパーに立ち寄った際の妻の嬉しそうな顔が忘れられない。

心配事だらけの赤ちゃんとの生活

赤ちゃんとの生活は、とにかく心配事しかない。

頭を揺さぶらないように。

おむつ替えで股関節が脱臼しないように。

沐浴の体勢変えで肩が外れないように。

着替え時に袖に指をひっかけてしまわないように。

…といったように、あらゆる瞬間も細心の注意を払う必要がある。

顔を真っ赤にして泣き叫ぶと、血管が切れてしまうのではないか、体調が悪いのではないか、隣近所に響いてしまっているのではないかと心配になる。

逆に静かだと、息をしているか不安になる。

お腹が動いているか幾度となく確認した。

とにかく小さな命を生かし続けることに精一杯だった。

もちろんその心配事を吹き飛ばすほどの愛おしさがある。

育休期間中にも様々な変化があった。

初めは息子と目が合うことがなかったのが、次第にジッと顔を見てくれるようになった。時折、微笑む瞬間もあり(新生児微笑という生理現象で意味のない微笑みらしいが)、それだけで救われた気持ちになった。

一瞬で過ぎ去ってしまう新生児の貴重な時期を間近で見守ることができた。おむつ替えの際におしっこやら”何やら”を浴びせられたのも、いい…思い出である。

「育休公言」への迷い

今回の2週間を「育休」と公言するかどうか、正直、迷いもあった。パフォーマンスと受け取られてしまうのではないか。ただ、育休取得を妻に伝えた時の安堵の表情や、先の人事部の先輩の顔などが浮かび、発信することで少しでも誰かの気持ちに寄り添えるならば、と腹を決めた。

初日から毎日、インスタグラムで日々の出来事を投稿した。

反響は予想以上だった。

あれよあれよとフォロワーが増えていき、育休中の動画の総再生回数が100万回(掲載時点)を超えた。

投稿記事が連日ネットニュースにも取り上げられた。

男性育休がいかに注目されているか、そしてまだまだ珍しい事象であるのかを肌で感じる結果となった。育休取得について広く伝え、発信した事は良かったと、今は感じている。

当たり前に「育休」できる空気感

私は二週間という期間であったが、これが1ヵ月や、もっと長期の休みとなる場合には更なる課題が出てくるように思う。まず、育休取得者の業務の穴埋めをどうするのか。同僚に過度なしわ寄せがいき、残業や休日出勤を余儀なくされるという事態を避けることができるのか。

また、未婚者や子を持たない人たちに不公平さを感じさせないような方策は取れるのか。特に人操りが厳しい中小企業で男性育休を普及させるには、働き方の制度改革が必須であると感じる。

そして、復職後にポストがあるのか、出世や昇進の道から外れてしまうのではないかという不安感も、育休取得を妨げる要因であると思う。

私の場合は、育休中に家で『Live Newsイット!』を見ながら、自分の出ていない番組が何事もなく進行していく様子に安堵すると同時に、少しの寂しさを覚えた。

男性も育休を取得しやすい法改正が進んでいる。

2022年4月以降、育休取得対象の男性に対して、企業側が育休の制度について説明し、取得するか否かを個別に確認することが「義務化」される。これは当たり前のようで、とても大きな変化だと思う。

冒頭に記した「育休はどうするの?」という言葉。これは、当時のアナウンス室の上長たちに妊娠報告をした時、かけられた言葉だった。私はこの一言に背中を押されて育休取得に至った。

法整備に加えて、当たり前に育休できる「空気感」を作っていくことが、これからの社会にとって何よりも大事なことだと思う。自分がしてもらったように、後輩にも育休を取得しやすいような空気を作っていきたい。

そして世の中全体がそんな雰囲気になっていくように、微力ながら育休の必要性について発信し続けていきたい。

【執筆:フジテレビ アナウンサー 榎並大二郎

へぇ~「そろばんって必要ない」って事だよね

メリットも解るケド、時代に即して無い
とくに富山はってはなし


“そろばん教室数”断トツ日本一は富山県 「江戸時代の寺子屋でも熱心に教えていた」歴史的背景も

2021年10月18日 06:00FNNプライムオンライン

富山県は、人口10万人あたりのそろばん教室の数が日本一だ。そろばん熱が高い背景を取材した。

そろばん教室の数が日本一の富山

総務省経済産業省が調査した統計データから求めた、都道府県別の人口10万人あたりのそろばん教室の数は、富山県が20.1で全国1位だった。

2位の石川県を大きく突き放し、全国平均の約4倍と断トツだ。
富山県で、そろばん教室が多いのはなぜなのか? 創業43年の老舗そろばん教室で、その理由を探った。

魚津市の老舗そろばん教室。日々、そろばんでの計算に明け暮れる子どもたちに、その魅力を聞いた。

小学生:
計算で高得点をとれるのがうれしい

中学生:
目標をどんどん達成していくのが楽しい

中学生:
自分の手で計算するという、自分の力でやった感じが良い

珠算1級満点合格の中学生:
計算機を使うよりも、喜びが大きい

普段、機械に頼ってばかりの記者が、スマートフォンの電卓アプリで計算スピードを競う勝負を挑んだが、足元にも及ばない結果となった。

そろばんは、いつの時代も不滅の計算ツールのようだ。

理由は“県内9割”大手教室の影響?

子どもたちに、なぜ、そろばん教室が多いと思うか聞いたところ、「真面目な人が多いから」「富山県では、そろばんがはやっている」「田舎だから」などの声が聞かれた。

県珠算連盟連合会の会長も務める塾長の瀬戸高則さんは、県内でそろばん教室が多いのは、ある大手教室の影響だという。

瀬戸珠算教室・瀬戸高則塾長:
教室が多いのは、“木谷さん”の影響

噂に聞いた、木谷綜合学園のそろばん教室。
創設から56年がたつこの学園では、統計上の県内のそろばん教室数の9割にあたる、191の教室を運営しているという。

木谷綜合学園 学園ビル教室・木谷千春講師:
教室は、各学校の前という形でそれぞれ開いている。もともと副学園長が、寺子屋みたいな形で教室を始めて、縁があって増やしていったのが木谷綜合学園の始まり

その副学園長を訪ねてやってきたのは、射水市新湊の内川沿いだ。

副学園長の木谷泰子さん(76)が、何やらマニアックな建物に迎え入れてくれた。

ーーここはどういった場所なんですか?

木谷総合学園・木谷泰子副学園長:
昔から私はそろばんやってるので、古いそろばんを集めて展示してある。いろいろ何十年かしてたら、あちこち行って、そこで出会ったそろばんを集めて飾って、みんなに見せようと思って

土地柄や歴史的背景も…

幼い時から父にそろばんを教えられ、今から60年ほど前に、木谷綜合学園の前身であるそろばん教室を地元の新湊(射水市)で始めた泰子さん。

その後、結婚し、夫婦で次々と教室を増やしていったという。

木谷総合学園・木谷泰子副学園長:
内川(射水市新湊を流れる川)が北海道とつながっていて、卸問屋がたくさんあって、みんなそろばんしていた。子どもたちが好きだったから、行ったところでそろばん教室を開いてきた。富山の薬売りはそろばんを持っていたし、富山県だから(数を増やせたと思っている)

木谷綜合学園がそろばん教室の数を増やせたのは、富山という土地がらならではのことなのだろうか。

富山大学の名誉教授で、教育哲学が専門の宗孝文さんは、富山は昔から数字を扱う職業の人が多く、江戸時代の寺子屋などでも、そろばんが熱心に教えられていたという。

富山大学・宗孝文名誉教授:
売薬さんや魚の取引で数字を取り扱うのに熱心な方が多かった。そろばんまで教える寺子屋は、(全国的には)そうなかったが、富山ではたくさんあった

富山大学の宗名誉教授の見解だが、富山でそろばん教室が多いのは、魚の取引や売薬業が盛んで、昔からそろばんに熱心な家庭や寺子屋が多かったところに、木谷綜合学園がそろばんに特化した教室を次々に開設したことが理由だという。

また、九州出身の宗名誉教授は、富山に来て、勉強熱心な人が多いということを非常に感じたようで、これもそろばんが栄えた理由ではないかと話していた。

ちなみに、東京オリンピックに出たバスケットボールの馬場雄大選手や、サッカーの宝田沙織選手も木谷綜合学園のそろばん教室に通っていたということで、競技での集中力は、実はそろばんで養われたものなのかもしれない。

富山テレビ