避けられなかったであろう事故だと思う。凄くやるせない気持ちと事件自体を覚えている。
圧死の後なので【そもそも近づかない】って「東京に住まない」という選択肢から疑わないととは思ったが、そもそもその選択枝を考慮してたが故に尚更いたたまれなくなった。
まぁ、ただ結局当時の自分の生活のしやすさor資金をためる事優先などがあったんだろう
何れも、とても少ない気持ちだとしても「お金」に囚われてしまった事が判断を鈍らせたり良くない結果を誘発したとも考えれる。
要するに教訓にするしかないという、σ(゚∀゚ )オレ側の感想でした。
「きょうは何日か知っている?11月4日だよ。『いいよ』の日だよ」
3度目で受け入れてもらえた、交際の申し込み。
夫婦にとって大切なこの日は、翌年、結婚記念日になりました。
3年前、東京・池袋で高齢ドライバーの車にはねられ死亡した松永真菜さん(31)と娘の莉子ちゃん(3)。
交通事故の苦しみとつらさを実感した家族は、交通安全の大切さを訴え続けています。
松永さんと、沖縄で暮らす父親が振り返る、愛する人への想いです。
出会った瞬間一目惚れ
2013年夏、松永拓也さん(36)は沖縄の親族の集まりで、真菜さんと初めて出会いました。
一目惚れだったという松永さんは、滞在中に真菜さんを食事に誘いました。
「明日、東京へ戻るんですけど、これからも連絡とっていいですか?」
真菜さんは快く応じてくれたといいます。
それから2人はほぼ毎日、仕事から帰った夜には1時間程度、電話で話すようになりました。
松永さんは月に3回程度は沖縄へ、真菜さんも月に1回程度、東京に来るようになりました。
仲を少しずつ深めるなか、「けじめをつけよう」と交際を申し込んだ松永さん。
しかし、真菜さんからの返事は思いも寄らぬものでした。
「ごめんなさい。お付き合いはできません」
それでも真菜さんはそれまで通り、電話したり会ったりしてくれたといいます。松永さんは諦めきれず、2回にわたって交際を申し込みましたが、真菜さんの返事は変わりませんでした。
松永さん
「どうしてだろうと思っていました。相手も好きでいてくれていると思っていたのですが。なので、あまり何度も申し込んでも、しつこいだろうと思って、次を最後にしようと思ったんです」
2013年11月4日、ディズニーランドを訪れた2人。
最後の告白だと思うと、松永さんは尻込みしてなかなか切り出せないでいたといいます。
閉園間際になって、夜のベンチでやっと最後の申し込みをしました。
「これで告白するのは最後にする」と伝えるとプレッシャーになると思ってシンプルにこう聞いたそうです。
「良かったらお付き合いしてもらえませんか?」
すると、真菜さんはうれしそうな表情でこう答えました。
「きょうは何日か知っている?11月4日だよ。『いいよ』の日だよ」
松永さん
「付き合ってから聞いた話だと、真菜はお姉さんを病気で亡くしていて、それでお父さんやお母さんを残して沖縄を離れることに迷いがあったようです。友人にも相談していたそうなんですが、『好きだったら勢いも大事』と背中を押してくれたみたいです」
2人にとって大切なこの日。翌年、籍を入れ、結婚記念日になりました。
父親想いだった真菜さん
真菜さんが、いつも忘れずに気にかけていたのは、沖縄の家族のことでした。
事故を風化させず安全運転を呼びかけたい。
沖縄に住む真菜さんの父親、上原義教さん(65)は、そんな思いから取材に応じてくれました。
上原さん
「真菜はね、心優しい子だから。5人きょうだいの真ん中で、上と下に挟まれて遠慮がちではありましたが、10代のころから家のことをいろいろと手伝ってくれて。家族思いの娘でした」
沖縄で小さいころから苦労を重ねてきた上原さん。18歳のときに出会った妻と5人の子どもたちは、命をかけて守るべき存在で、生きる希望でした。
真菜さんから松永さんと結婚すると聞いた当初、上原さんは「本土は遠い」と感じたそうです。
しかし、夫になる松永さんの人柄を知り、沖縄に引き止めることはしませんでした。
上原さん
「会ってみると拓也くんはとてもいい子で優しい人だとわかりました。真菜は『将来的には沖縄に帰りたい』と言っていましたが『拓也くんとよく話をするように』と言い含めて送り出しました」
2人の幸せを願い真菜さんを見送った上原さん。しかし、真菜さんの姉の次女に続いて、突然のくも膜下出血で妻も亡くしてしまったのです。
悲しみに打ちひしがれ、当時は心に穴が空いた状態になっていたといいます。
そんな父親を気遣い、真菜さんはスマートフォンをプレゼントしてくれました。
そして毎日のように東京からテレビ電話をつないでくれて、莉子ちゃんの日々の成長を見せてくれました。
真菜さんからの言葉
「お父さんきょうも大丈夫だった?」
「元気だった?」
「眠れている?」
「ごはんちゃんと食べられてる?」
心配してくれる真菜さんのため、上原さんがいつも送っていたのが自慢のサーターアンダギーです。
家族の健康を常に気遣っていた真菜さんは、莉子ちゃんには必ず手作りのお菓子を与えていました。
上原さんのサーターアンダギーも素材にこだわった手作りで、真菜さんも莉子ちゃんも大好きだったといいます。
揚げたてを食べさせてあげたときの笑顔、一緒に海で遊んだこと。
沖縄での思い出は尽きることがありません。
上原さん
「莉子は海に入って足をつけるだけでも怖がって泣いていました。最後のテレビ電話で莉子は『次は泣かずにちゃんと泳ぐからね。じーじ、また沖縄の海に連れて行ってね』と話しました。そして、新しく買った水着を見せてくれました。『かき氷を食べたい』とも話していました。それが真菜と莉子との最後の会話です」
いつも通りテレビ電話をした2、3日後。
真菜さんと莉子ちゃんとの別れは突然やってきました。
あの日、スマートフォンにかかってきた電話
3年前のあの日、事故の一報は、松永さんから上原さんのスマートフォンにありました。
当時のやりとりは今でも鮮明に覚えているといいます。
松永さん
「お父さんすみません。守り切れなくてごめんなさい」
上原さん
「ちょっとのけがくらいでしょ?別にたいしたことないから」
しかし、その後に続いた電話の内容をすぐに受け入れることはできなかったといいます。
上原さんはすぐに那覇空港から羽田空港に向かいましたが、2人に対面できたのは翌日になってからでした。
上原さん
「真菜の傷を見たら、すごかったですし、ただ、莉子ちゃんだけはね、見てあげられなかったんですよ。見られるような状況じゃないと。だから手を握って、ずっとお葬式のときも朝まで手を握ってね」
上原さんは涙を拭いながら2人のことを話してくれました。
変わり果てた愛娘の姿に大きなショックを受けた上原さんでしたが、真菜さんの最期の様子を聞いたとき、ようやく現実に気持ちが追いついた気がしたといいます。
大切な人のことを第一に考える、とても真菜さんらしい行動だったからです。
上原さん
「真菜は、重傷を負いながら、自転車から放り出された莉子のところまで、はいつくばっていこうとしていたということでした。自分のことよりもね、娘のことを思って」
毎月届いた手作りカレンダー
沖縄の上原さんの自宅には、真菜さんから毎月送られていたカレンダーが大切に残されています。
孫の莉子ちゃんの写真と、メッセージが添えられた真菜さんの手作りです。
上原さんは、カレンダーを見つめるたびに孫の成長に元気をもらい、同時に、真菜さんの優しい気遣いを感じていたといいます。
上原さん
「いろいろなことを書いて送ってくれるんですよ。誕生日も。バレンタインには必ずチョコを送ってくれた。本当にこまめにやる子でした。私のことが心配で、まめにやってくれたんだと思う」
沖縄に移住、家族の夢
真菜さんと松永さんは、実は事故の翌年に沖縄に移住する計画を立てていました。
「3人で沖縄に移住したい。そして海のそばに、中古でいいから、小さくていいから家を買って、そこで生きていきたい」
あるとき真菜さんは遠慮がちに自分の想いを打ち明けたといいます。
松永さん
「娘の莉子を自然のなかでのびのび育てたいと話していました。そして何より、真菜は沖縄の家族のことが心配だったのだと思います。その話を聞いて、もともと彼女が覚悟をもって東京の僕と一緒になってくれたのだから、『今度は自分の番だ』と思って沖縄に移住することを決めたんです」
そして、ゆくゆくは沖縄に買った一軒家でカフェをすることを夢見ていました。
以前コックをしていた経験のある父親の上原さんも、カフェを手伝えるのではないか、と待ち望んでいたといいます。
家族みんなが沖縄へ。そんな幸せな未来を描いていました。
上原さん
「これは莉子が赤ちゃんのとき着ていた洋服なんですよ、きれいに片づけて畳んでね。『次の子は沖縄で出産するからお父さん、これちゃんと置いておいてね』ってね。だいたい決めていたんですよ、下の子の名前まで。最後に見た2人の姿は忘れられないです」
あの日から3年 “会いたい”
事故から3年になったことし4月19日。
東京・池袋の事故現場を松永さんと上原さんは訪れました。
午後0時23分。
2人は、現場近くの公園に設けられた慰霊碑で手を合わせたあと、こう話しました。
松永さんは「命日になるとどうしても2人に会いたい、抱きしめたいという思いになります」と話しました。
上原さんも「2人に会えるなら会いたい気持ちでいっぱいです」と真菜さんと莉子ちゃんへの思いを述べ、事故防止への願いを語りました。
「私たちの願いは『忘れないでね』ということ」
松永拓也さん
「出会った瞬間にとても美しい人だと思いました。人の悪口や愚痴を決して言わない人で、出会った日から亡くなる日まで、たった一度も聞いたことがありません。私はそんな彼女を、心の底から尊敬していました。
莉子を授かったときは、2人で歓喜の声を上げながらリビングで小躍りをし、喜び合いました。
交通事故は一瞬の出来事なのに一生ひきずることになる。加害者も同じで、今まで通りの生活ではいられないし、誰も幸せにならない。車の運転だけでなく、歩行者であっても自転車であっても交通社会である以上、1人1人が気をつけないといけないと思います」
取材後記
3年の間、私たちは松永さんや上原さんから多くの話をお聞きしてきました。
2人が振り返る思い出は1つ1つが幸せなものばかりで、それ以上に深い悲しみも伝わってきました。
同じ思いをほかの人にしてほしくない。悲惨な交通事故を1件でもなくしたい。
「ドライバーの皆さんは、ぜひ交通ルールを守り、愛のある優しい運転を」
真菜さんと莉子ちゃんの命を無駄にしないため、松永さんと上原さんは交通安全を呼びかけています。
最後に、2人は次のように語っていました。
「私たちの願いは『忘れないでね』ということです。そして、自分たちは気をつけようと、車を運転するときは気をつけようと思ってくれると本当にうれしいですよね」