近代の特に日本人や先進国民は、自分という自我と主語を深く埋め込んでるなーって思った。
西田哲学の、今あるもの。たとえば「馬が走ってる」のを認識する工程説明で
啓示っていわゆる、(自分のなかの神みたいなもん)で、覚悟は自分からの自発的意思表示で、
ほぼ、本来同質のものであるのに違って捉えられてるなーっておもって。、
それは、自己の埋没からだろうなーって
それって、子供の頃からの
エセ民主主義的な
比率尺度と間隔尺度。主語の存在をずらされて会話して生きてきたからだとおもうし、違いないと思ってる