あえて、フワっとした「弱い」って表現
(放送大学が、あと2年弱でラジオ放送終わるのは悲しい)
別番組でも「最近の道徳とか、生徒主体の授業増やしました」っての聞いてたのね。
で、2回目で本質的に超重要問題に気付いた。
★【先生自身が楽するプログラムになってる】って良くない事。
ある意味⇢道徳のAI化だとも思う
その背景には。
政府が悪いと教えれない。
教科書が悪いと。環境が悪いと。
そう。人のせいにすること。
また、その人のせいにする理由は
自分が子供の頃に、真剣に掛け値なく。一切の嘘や隠しが無く。自分をサンプルに道徳を教えてくれた人が居なかったこと。なんだと思う。
つまりは、時には自分。時には親が悪者になってあげる事。失敗を許容。そして会心⇢で、おんがえし
って世の中のサイクルを体現すること。それを誤魔化してたツケだと思う。
最近の道徳の歴史
現在の道徳授業要領って2000年代からあまり変わってないらしい。
ケド猫騙しとして、
「問題提示がた」⇢【問題解決型】に変わってきてる。
そもそもの、問題?答え?として
【道徳に答えは無い】【人生に答え無し】ってのをいよいよ履き違えてる。
おごってる。って思う訳。
そう。、問題定期側の、。、大人側の心理。経験。理想がおかしい。
良くも悪くもむかしは、先生が足らない部分を自分の人生で補ってた。
そして、その補いに対して「一個の例しか無くて申し訳ない」って責任を持って例示してた人が多かったのね。
それが今は「ああ!これが理想の正解です真似してね。いじょー!」
子供も嫌になるよね。
答え覚えて終わり。
そう。( ゚д゚ )彡そう!
「答え」の「こ」の字も出しちゃ駄目なのよ。
先生自信も。
出して良いのは最初だけ。
「完全性が無い中で大人も生きてますが、先生だって授業しなきゃ。お父さんお母さんもお仕事しなきゃ」これだけ。
あとは流れに任せる。
真剣に答える。理想論に逃げない。生徒を認める。生徒と競争するくらいの気持ちで