新年 地震 次のこと

新年あけましておめでとうございます

 

そうは言っても、僕を知ってる人が見てくれているとは思はない。自分のメモのブログだし、有名ブログ、メディアと比較しても、自分に核心的に興味を持ってくれる人なんてそうそう居ないものだ。

そうだね。特別感だよね。だから、もっと広い視点で自分のブログを考察できる年齢に成った訳だけど。他人のブログなり、著書でも良いや。

発信の手段と比較したときだ。結局、概ね自分の身内以外は、有識者でもない限り(有識者も広義的には、局所的な身内と見ることができる)コチラが書き記したい内容として見て理解してくれない。また、見ることが出来ない訳だ。

そこには、共通認識と、価値観と。要約すると自分と世界に対する「愛着」や「愛」が必要なんだ。

 

 そして、恥ずかしながらそんな内容の書き方なのに、読みにくさと、難解さを孕んでるwカッコつけて、私は内容を結構ぼかして隠して書いているのだ。

 ただ、言い訳ではなく、ホントに全部書いたら

①労力と、文量として大変

②要点メモとしての機能が薄くなる

(暗にメモや書物は、要点でみじかくが望ましいと持論)(話は長いのだがw)

③プライバシーと身の危険(限りないリスクケアとの勝負である)

 

 

もう既に長いのだが(笑)自分の思考は短く書けてるつもり。

 

 

 こういった前置きは、フラットな気持ちへの自分への落ち着かせるメッセージだし、十分機能している。「このような導線を辿ったからコウ考えます」と!

 

 ものをまとめるには、要約と展開力。また、必要な思考の道具だけを常に持ち歩くという、知性の選択が(敢えて洗濯のホウガイメージ伝わり良いかもしれない)あー。そうそう…割と早い段階から、居ないのに自分の子供に遺してる節はかなりある。

 

 自分の根幹には、「自分のことを解ったうえで、物事を選んでほしい」って万物への願いがあるからだ。

コレは、自分の納得感への呪いでもあるし、自分の気持ちよさに直結してる。

「理解して選んだら、運ではないし、その人の個性としか、言いようがない」「自分のカバーできる範囲を超えている」あきらめがつく、納得感しかない。そんなはなしだ。

 

 漸く本題。暫くブログの時間が取れなかったから、はしゃぎと残念を、感じてたのだ。

 

 

 新年一発、能登地震で新しい事に気付いた。というか、自分の甘えた考えかたにメスまでは。いかないが方向転換を直感し、実戦を試み始めたのだ。

要点

①自分は年で人生は短い

②自然災害は不可避で、人のチカラは無力に近く見え、関わり方、受け取り方が大事

三シッカり生きると、他人の為に投資しすぎて自分の時間が全然なくなって嫌だ

 

要するに転職したい。つかする。

 

以上なのだ